光のいのり

私流「禅」

仏教(親鸞と禅)を経て、自死について必死で考えてみた

どうも、黒田明彦です。「禅」の心と、私がやってきたカウンセリングの学習って近いなぁってあらためて思うんですよね。

どちらも人間の学習にかけられている願いが同じなんだろうなと思うわけです。

というわけで、今回はカウンセリング方面のところを語ります。

テーマは、「自死」です。

実際に身近な人が自死に至った方には、非常にナーバスなテーマだと思いますが、私なりに、正直に、必死で考えてみました。

あなたの心にも、問いが生まれるでしょうか?

まずはこちらの動画をどうぞ。

仏教とカウンセリング、自死について必死で考えてみた

それでは、補足解説をご覧ください。

「禅」の心とカウンセリングの心は近い

こんにちは、黒田明彦です。

今日も「禅」体験について語っていこうと思います。

私は今、座禅、そして「禅」の考え方というものにすごくハマっています。

なんというか、自分によく馴染むなっていう感じがしているんですよね。

それは「禅」に響き渡っている雰囲気というか、学習の仕方・姿勢、そういうものが、私がずっと若い頃からやってきたカウンセリングの学習と、すごく通じるものがあるからなんですよね。

私がやってきたカウンセリングの学習も、「禅」も、基本的には何も情報をくれないんですよ。

とにもかくにも、体験してみて自分の身体で、自分の頭で考えてわかっていくしかない。

これが徹底されているわけです。

「これが答えです」というのを先生が持っていて、その先生の持っている答えを参加者が一生懸命探り当てて、当たった人が優秀!とか、そういうことじゃないんですよね。

ただ、場所と時間が決められていて、基本的にはそれぞれの人に学習を任せる

そういう厳しさと優しさが満ちている場所。

だから、自分で考えなきゃ何も始まらないし、自分で飛び込まなきゃ何も始まらない。

「禅」もカウンセリング学習もやってみる場所

「やってみる」ことが許され、願われ、できる場所。

私がやってきたカウンセリング学習と「禅」は、その辺の感覚がすごく似ていて、非常に馴染みやすいわけです。

そして、やっぱり、本物の学習だなぁって感じがするんですよね。

やっぱり、そういう学習って、やってて楽しいんですよね。

私にとっては、人生学習そのものが、カウンセリングの学習であり、また、人生学習そのものが「禅」である。

カウンセリング=「禅」=学習=人生、であると言ってしまって、全然差し支えないなぁと私は今は思っていますね。

ただ、私としては、「座禅」という1つの作法が私の生活の中に入ってきたことは、とても大きな変化ですね。

まぁ、そういうわけで、私にとって「禅」とカウンセリングは、ほぼイコールなわけなのです。

ですから、この私流「禅」体験というシリーズの中で、カウンセリングの話をしていってもいいだろうなと思ってるわけです。

ご理解のほどよろしくです。

自死について必死で語る

さて、今回はですね、先日私が参加したエンカウンターグループで、私自身が発言した内容をもう一度語ってみようかなと思います。

エンカウンターグループとは、「禅」の心があふれた、グループ学習の場ですね。

カウンセリングの神様、カール・ロジャーズが考案した体験学習のことですね。

それぞれが語り、聞き合う場所です。

自死について考える機会が生まれた

あの時、あの場で生まれた語りを、ここで再び語っても、エネルギーが全然違うだろうなとは思うのですが、私なりに語ってみますね。

あの日、グループの進行、流れの中で、私の中でその場が、自死について考えるような場になりました。

たまたまなんですけどね。

自死という言葉

自死というのは、一般的には自殺と呼ばれているものです。

非常にインパクトが強くて、その自死が起こったときには、社会問題だ!となって、ワァーッてニュースにもなるし、あってはならないことが起こった…と皆で大騒ぎします。

そして、なによりも自死は、その亡くなった人に身近な人ほど、本当に非常に辛い思いをするものです。

私は、いつからかカウンセリングの先生の真似をして、自殺という言葉を自死と言い換えるようになりました。

最初はただ、口真似をしていただけなのですが、今では、なぜ自死という言葉を先生が使っていたのかが、わかるような気がします。

おのずからの死

自死というのは、自ら(みずから)死ぬ、と読む言葉ではなく、自ずから(おのずから)の死と読む言葉です。

おのずからの死、が自死であると。

自死という現象を考えるにあたって、まずどうしても言っておきたいのは、それは、自分の力で死ねたわけではないのだ、ということです。

亡くなった人は決して、自分の力で死に至ったわけではない、と。

私は、親鸞に会いに行く道ということで、私なりに浄土真宗についても語ってきましたが、絶対他力というのは、私の思想の中の大事なものの1つです。

決して、自分で死んだのではない。

そこに自力はないのだと。

あるのは、あくまで人間の力を超えた力、他力

人間の智慧、分別の及ばない力によって、自然に死に至っただけだ。

人間は人間の力では人間を殺せない。

ある人知を超えた現象を人間が捉えて、自殺だ他殺だって言っているだけである、と。

他力とは人間の意思を超えた力

人間の行動の根っこのところ、意志を生むものは、人間の力を超えているのだから。

人間は自分の意思で、自分を殺すことも、他人を殺すこともできていない。

因と縁が揃えば、そういう事象は起こり、そしてそれは、自ずから起こるものの1つであると。

「死にたい」は許せるものだろうか?

私はこれまで「死にたい」って言葉になってる人たちと会ったこともありますし、話を聞く機会もありました。

その時にいつも私が思っていたことは、「死にたい」という、その人の気持ちをそのまま受け止めてよいのだろうか?ということです。

もう少しわかりやすく言ってしまうと、

その人の「死にたい」を許してあげちゃってよいのだろうか?ということです。

これまではわりと単純に、それはダメだと。

気持ちを受け止めることはできるけど、あなたがやろうとしている行為は許容することができません。

と、相手にも自分にも言い聞かせてきたようなところがあります。

でも、それって嘘ですよね。

自殺はダメと言う方が、安全なだけ

気持ちは受け止めるけど、死んじゃダメだよって。

自殺しちゃダメだよって。

それって、その人の気持ちを本当に受け止めたことになってるのでしょうか?

結局、その人の死にたいって気持ちは拒否されているのではないか?と。

受容されてないじゃないか?と。

私は、精神保健福祉関係の施設で管理者を経験したことがありますので、その立場、現場によっては、職業倫理上や、社会通念上、あとは、所属する組織の防衛的な理由によることも大きいですが、単純に「自殺はダメです」と言って、「それは受け容れられません」と言って、突っぱねてしまうような対応をしてしまっても、致し方ないように思うところもあります。

単純に、そのような対応の仕方が、「死にたい」と言葉になっている本人ではなくて、聞いている人、対応している人にとって、安全なんですよね。

公に向けて「私は自殺を止めました」っていうようなことを、いつかどこかで主張できるような対応をしている方が安全なわけです。

受け手、聞き手、支援側の身の安全を守るために「自殺はダメだよ」と言う。

というか、「人間は死んじゃダメなんだよ」と言う。

それも致し方ないなと…。

そこで、私の思考はしばらく止まっていたんですけどね・・・。

私自身に「死にたい」がやって来た

ここ数年来、正確に言うと、仕事を辞めて、自営でやっていこうとトライを始めてからですが、この私自身に、「死にたい」っていう言葉が、来るようになりました

私の年齢が40に達したこと、そして、一緒にいると「人間とは?生きるとはなんなのか?」ということを考えざるを得ないような人たちと、一つ屋根の下で暮らしているということも関係がありそうです。

今までは、「死にたい」なんて言葉が私に来ることはなく、死についても考えることはほとんどなかったわけです。

しかし、いざ、自分自身で、死っていうことについて、逃げられない感じでいろいろ考えだすと、大きな変化があるものです。

私の場合は、もがいた挙句に、仏教への道が開かれて、あらためて浄土真宗、親鸞の言葉を勉強してみようと思えましたし、日々、座禅を組んで禅の心に、向かい合ってみるなんてことも始まったわけです。

そういうわけで、私にとって死っていうものが、以前よりも大分切実なものになっているわけです。

死に対する前提が変わった

そうなった今、思うのはですね。

私のこれまでの「死にたい」という言葉になる人への対応というものは、死はあってはならないものっていうのが前提だったなと気が付いたわけです。

  • 死は隠すべきもの
  • 死は絶対にあってはならないもの

だから、普段から頭の中で、死なんて考えちゃいかんと。

死を考える脳ミソは、健全な脳ミソではない。

死のことばかり考えてる人はうつ病だ、みたいな感じすらあったかもしれません。

だから私自身に「死にたい」って言葉がやって来た時は、私は病気になってしまうんだろうか?もしくは既に病気なのだろうか?

と、ちょっと迷ったりもしました。

そういう意味では、仏教や哲学は、真正面から死について考えていますので、助けになってるなぁと思いますね。

死は当たり前に、自然にある

これまでの経験と仏教の学びを経て、今私が思うのは、死は当たり前にあるものだということです。

隠さねばならないとか、あってはならないものではなくて、当たり前のように、必ずあるものであると。

死は誰にだって必ず来るものである。

そして、誰だって、いつ死んでしまうかわからないんだ。

ここに、ガッツリ座った上で、「死にたいんです」っていう人たちに、対応していきたいなぁと思えたんですよね。

ただ最高の時間になることを望むのみ

死はあってはならないものではない。

隠さなきゃならないものではない。

絶対にあるもの。

そして、自然にあるものなんだ。

ここを前提に置いた上で、いかに、今、「死にたい」と言葉になっている人たちに対応できるか。

だからその対応は、いかに死が起こらないようにするかを目指すのではなく、ただ単純に、今ここでの、その人とのやりとりが最高の時間になるっていうことだけを目指そうというふうに、今は考えています。

自死は必ず来る死の1つの自然な形にすぎない

死は絶対起こる。

ドーンと、そこに座った上で「死にたい」という人にどうアプローチできるだろうか。

前提が変わったんです。

死はあってはならないこと

死ぬってことは隠さなきゃならないこと

自死はあってはならないこと

ではない。

死は、当たり前に、自然に、あることだと。

自死もその必ず来る死の1つの自然な形にぎない

そこに座った上で、今そこにいる人の言葉にどれだけ寄り添えるかっていうことを考えていきたいなと今、思っているということですね。

なんかその辺りをこの間、エンカウンターグループがあったときに、話したわけです。

この前、話したときの方が(この言葉が生まれたときの方が)、熱がこもってたと思いますけどね。

さて、あなたの心には何か生まれましたか。

空淡、黒田明彦

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